マーク・ラファロからプレゼントをもらうなんて、滅多にないことだ。でもそうとしか説明できないものから始まって、最終的に出来上がったのが本作『ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男』なのだ。
このプロジェクトが私の元にやってきたのは、ナサニエル・リッチが書いた画期的な記事がニューヨーク・タイムズ誌に掲載されてから、わずか一年後だった。その時点でプロジェクトはすでに、マーク・ラファロとパーティシパント社のもとで、順調に軌道に乗っていた。初めて記事を読んだとき、不屈の企業弁護士ロブ・ビロットのストーリーと、それによって図らずも露呈したデュポン社とテフロンのストーリーに、多くの人同様、私も驚き、憤慨した。
ドラマ化することがどれほど大変になるとしても、そのストーリーは今なお続いている企業の不正を明確に示しており、文化、政治にも強く関連しているものだった。監督には才能ある人々の名前が脳裏をよぎるようなプロジェクトだったけれど、なぜかマークは私のことを思い浮かべてくれた。
マークは知る由もなかったが、私はこのジャンル、つまり内部告発もののひそかなファンだった。アラン・パクラ(とゴードン・ウィリス)による1970年代の『コールガール』、『パララックス・ビュー』、『大統領の陰謀』のパラノイア三部作や、その後のマイク・ニコルズ監督作『シルクウッド』やマイケル・マン監督作『インサイダー』に心底敬服しているのは、私だけではないだろう。ただ、権力が犯した過ちを明らかにすること以外にも、私の心をとらえる何かがこれらの作品にはあった。(リチャード・ニクソンがいかに腐敗していたかを知るために『大統領の陰謀』を見る人はいない)。もちろんこれらの作品では、企業や業界によるものであろうと、政府によるものであろうと、権力の乱用や脅迫や隠ぺいが明かされる。実際、それが物語に期待されるものであり、そうした期待が、物語に先立って実社会で高まることもよくあることだ。しかし、内部告発映画の真に焦点をあてるのは平凡な人間であり、彼または彼女のたどる過程であり、真実に立ち上がることでその人物が直面する、致死的とまではいかないにしても、精神・感情面の危機である。
本作の主人公ロブ・ビロットは、思いがけなく卓越したヒーローとなる。デュポン社に関して発見した事実によって、彼がそれまで企業活動に抱いていた憶測が根底から覆される。懐疑的で無党派、そして生まれつき用心深いロブ・ビロットは、多くの典型的な内部告発者同様、物語が始まる段階で既に孤立している。そして予想通り、その後に起きる出来事はどれも、彼の孤立を深めるものばかりだ。そうした孤立やスティグマ(汚名、差別)が、この物語のきっかけとなったウィルバー・テナントも味わうものであり、相互依存関係にある彼らのネットワーク中に広がってゆき、階級の違いを超え、彼らの社会、家庭、教会での生活に害を及ぼす様子から、独特で陰湿な形で波及していくことが見て取れる。(社会、家庭、教会での)人との繋がりがあったとしても、強力な利害関係に立ち向かうことで、自分の世界は縮小し、心身の力は削がれてゆく。『ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男』のような映画は、そうした分裂を事細かく描写するものだ。
本作では、素晴らしいクリエイティブチームに囲まれながら、ウェストバージニア州シンシナティでロケーション撮影を行った。撮影期間の大半は厳冬期だった。実際のロケーションの多くで撮影することができ、また、地元で活躍する素晴らしい俳優たちを、才能ある出演陣に迎え入れることもできた。対照的な場所同士を冷静で客観的なスタイルで結び付けて、それらの場所が互いに依存し合っていることを強調しようと試みた映像に、時期と場所の特異性が感じ取れる。そこから浮かび上がってくるのは、複雑で、ときに相矛盾するアメリカの風景である。ただし、経済力の境界線は、その限界に直面させられながらも、明確に引かれている。
ウィルバー・テナントの裁判とその後に続いた歴史的な集団訴訟が起こりえたのは、こうした矛盾、またはありえなさの結果によるところが大きい。化学工業界のために働いてきた企業弁護士が、立場を反転させて、デュポン社のような巨大企業に立ち向かう。そんなありえなさこそが、成功するための時間とリソースをロブに与えた。したがって、トム・タープとタフト法律事務所の承認なしには、起こりえなかったことだ。同様に、ウィルバー・テナントやジョー・カイガーの強い意志と粘り強さ、ウェストバージニア州における医療モニタリングに関する裁定、オハイオ州とウェストバージニア州の法律をリンクさせる「2州」戦略、あるいはビロットが妻のサラから得たサポートと平静さ。それらがなかったとしたら、この驚くべき結果を得ることも、パーフルオロオクダンスルホン酸(PFOA)のようなフォーエバーケミカル(永遠の化学物質)が、私たちの生活のあらゆる場所に潜んでいることを世界の人々が知ることができたことも、想像しがたい。
しかしながら、こうした映画がスラムダンクで終わることはほとんどなく(何と言っても、こうした映画は大抵の場合、実話に基づいているから)、本作も例外ではない。勝利から得る恩恵の代わりに、最後に描かれるのは、継続している状況としての戦い、知識と絶望との間で不完全な形で生きるための下地としての戦いである。そうすることで、我々全員を(我々自身のものになる)物語の中に留めているのだ。
この『ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男』では、一つの地域、一つの国の大気汚染・水質汚染として始まったものが、結果として、世界中の人々の血を汚染する問題になり、資本家やイデオロギーシステムの直接の被害者になっていないとしても、我々を、地球の住民としての相互に結び付けた。この人災の規模の大きさにおいて、我々は常につながっている。正義を求める終わりなき戦いと、自分たちの命を守るための戦いの中で、ロブとウィルバーを、タフト法律事務所とウェストバージニア州のパーカーズバーグをつないだように、我々を互いにつなげてくれるのは、知識とアウェアネスだ。